「医師の流儀」
上山博康医師は脳の血管にできる瘤(こぶ)、脳動脈瘤(のうどうみゃくりゅう)の手術の第一人者として知られ、勤務する北海道・旭川赤十字病院には、全国から患者が殺到する。
しかし、医師としての凄(すご)みは、手術の技量だけにあるのではない。
それは、突き抜けた覚悟にある。
脳動脈瘤という病気は、患者にとってきわめてやっかいなものだ。
ひとたび破裂すれば、9割が死に至るが、必ず破裂するとは限らない。
手術が失敗すれば、重い障害が残り、時に命にも関わる。
当然、医師はその危険を告知した上で、自らの判断を告げる。
上山さんは、そうした不安と迷いのなかにある患者たちに、リスクはリスクとして伝えた上で、覚悟を持って「自分はこの手術を成功させます」と言い切る。
『弁護士さんに「上山先生のやり方、危ないですよ」と言われたことがあるんです。
大丈夫ですよという手術をやるのは危ないですよって。
でもね、やっぱり僕は患者さんが命懸(いのちが)けの信頼を僕にくれるのに、逃げ道を先に、自己弁護を先に出すというのはなんか卑怯(ひきょう)な気がします』
「危ない」というのは、失敗したときに、医療過誤で訴えられることを意味する。
しかし、上山さんは、覚悟を持って言い切るという医師としての流儀を貫き通してきた。
このすさまじいまでの信念、覚悟を持った生き方の陰には、若き日に恩師から受け取った、一つの言葉がある。
恩師の名は伊藤善太郎さん。
脳卒中治療のエキスパートとして全国にその名を知られた脳神経外科医である。
上山さんは、29歳のとき、伊藤さんの手術を見て、その流れるような針さばきに心を奪われ、勤めていた大学病院をやめ、秋田にある伊藤さんの病院で働き始めた。
来る日も来る日も伊藤さんの手術に立ち合い、その一挙手一投足に目をこらした。
そんな修行の日々のなかで、上山さんには一つどうしても気になることがあったという。
患者が亡くなったときの伊藤さんの態度だ。
伊藤さんは、必ず「力及ばず申し訳ありませんでした」と家族に謝った。
それは手の施(ほどこ)しようがない場合でも変わらなかった。
合点がいかない上山さんはある日、師匠に食ってかかった。
『僕は、それはおかしいって言ったんですよ。
こっちは何も悪いことをしていない。
そんなに詫(わ)びていると、こっちに医療ミスがあったように思われたら困らないですかって。
でも、そう言うと、伊藤先生はむっとして、ちょっと厳しい顔つきになって「上山、それは医者の論理だぞ」って言いました。
助けて欲しいから、ここに来たんだろうって。
助けられないのはおれたちの力がないからだよって』
伊藤さんは、日々の治療に加え、新しい治療法の開発にも力を注いだ。
しかし、どんな世界でも、新しいアプローチは往々にして、批判の対象となる。
伊藤さんの研究も例外ではなく、学会では、幾度も厳しい声にさらされた。
なかには、やっかみや理不尽な言いがかりのようなものもあったが、伊藤さんはどんな意見にも耳を傾け、研究を前進させるために、次なる取り組みに邁進(まいしん)した。
ある日、学会発表の準備をしているときだった。
伊藤さんが、若い上山さんに向け、ぽつりと言った。
「批評家になるな。
いつも、批判される側にいろ」
『何かをやり続ければ、必ず、やっかみもあるだろうしね、批判もされます。
「つねに批判される側でいろ」ということは、つねにアクティブに仕事を止めるなと。
だから、僕が親分の言うことを守ろうとしたらね、いわゆる自転車操業を超えて、マグロとかカツオと同じように一生泳ぎ続けるしかない。
歩みを止めるのは、自分が死ぬとき』
恩師・伊藤善太郎さんからもらった言葉を、上山さんは自分にとっての「灯台」と呼ぶ。
出典元:(人生と仕事を変えた57の言葉 NHK「プロフェッショナル」制作班)
考えさせられる。私もしっかりと頑張ろうと思います。